発泡スチロールのような愛

例えば、たとえばの話。痛みや傷痕に伴っていだく「愛しい」という感覚が、痛みや傷痕が消えてしまったとき、その感覚の寄りそう場所がなくなったときにこそ大きくなればいいなと思うような日もあって、そもそも痛みや傷痕を作ってしまったことが間違いだったと思うような日もあって。何の意味もない数字をなぞって与えられる1日1日を、特に好きな味であるわけでもなく口がさみしいという理由だけで適当に放り込んだ飴玉を舌でころがして溶かすようにして過ごすのは悲しいから。

 

この頃の私の不満は、世界のすべてがただそうしてカレンダーの日付通りに行われていること。私は夏が好きだという、誰かは暑いのは苦手だと返す。私も暑いのは苦手です。私は夏が好きだという、誰かは冬の方が好きだと返す。私も冬の方が過ごしやすいと思います。でも私は夏が終わって秋が来て冬が来て、だなんて歳月の流れや暮らしの話はしていなくて。私は夏が好き、それだけの話。

 

「今日も1日愛しています」
「はい、こちらも今日も1日愛しています」
という発泡スチロールのような愛。

 

161015