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発泡スチロールのような愛 4

添えられたメッセージカードには「去年の夏が終わる頃に憂くんと出会えたことが私の2016年一番の幸運でした」と書かれていた。私は「23歳の夏が22歳の夏よりも楽しくなればいいなと思います」と書いていた。きっとお互いに不確実ながらもやさしい発泡スチロールのような愛を信じているんだと思う。だからこれからも、よろしくね。

 

「今日も1日愛しています」
「はい、こちらも今日も1日愛しています」
という発泡スチロールのような愛。

発泡スチロールのような愛 3

「腕に飼われた海月は海を知らないから懐かしまないでいいよね、知ってしまったら悲しくてなげいてしまう」確かにそうだと思った。あの二匹の海月は海を知らないから海に帰ることもない。その腕の水槽の中で毎日ささやかれる愛にこたえるかのように泳ぎ続けている。心臓が拍動するように、膨らんでみたり萎んでみたりする。だんだんとその拍動が弱まって最後は白くにごって動きをとめてしまう。それでもその動かなくなった海月たちに愛をささやいてもらうことで私は生き延びる。お互いが延命治療をするかのように傷つけあう、傷つけるかのように延命治療をしあう。だって海月たちは光を放っているから。自らの行く先を示すにはたりないけど、自らの存在を示すことは出来るくらいのわずかな光を。人さまに迷惑と珈琲をかけてはいけないように、その海月たちには炭酸水をかけてはいけない。

 

「今日も1日愛しています」
「はい、こちらも今日も1日愛しています」
という発泡スチロールのような愛。

発泡スチロールのような愛 2

間違いだったと思ったから涙を流したのか、すんなりと夢が叶ってしまった呆気なさに涙を流したのか、それともただ嬉しくて涙を流したのか、ただ悲しくて涙を流したのか、一体何の涙なのかよくわからなかったけど泣き止むまでその親指をつかんでいた。私は親指をつかんでもらうと安心するから。それはきっと私がまだ子供の頃、怖い夢なんかをみてひとりで眠れなくなったときは両親の寝室に行って、そっと布団にはいって、そしたら親指をやさしくつかんで私が眠るまでそのままでいてくれたから。だから私もそういうときは親指をつかむ。

 

腕に飼われた海月の成長過程を見守る。愛しく思ってみたり、疎ましく思ってみたり、穏やかな気持ちになってみたり、悲しい気持ちになってみたり。たくさんの感情の波がいっぺんに押し寄せてきてそのまま飲み込まれそうな気持ちになる。でも水をこぼしてしまわないように、水をこぼしてしまわないようにと、器を水平に保って。

 

「今日も1日愛しています」
「はい、こちらも今日も1日愛しています」
という発泡スチロールのような愛。

キツネたちの季節

私は挨拶代わりに手でキツネをつくる癖のあるあの子が好きだった。凛とした空気をまとったどこにも隙のない綺麗なあの子。毎月おすすめの本を交換し、季節ごとにプレイリストをつくって聴きあっていた。その子といたときは時間を過ごしたのではなく、季節を過ごしたような感覚だった。天気や気温、湿度といったさまざまな日々の要素に応じて、それぞれの習慣や遊びをもった豊かな季節を。

 

「お願いごとは5つまでね」そう言って窓際に飾った笹を指差した。七夕をきちんと七夕として楽しむのはその日がはじめてのことだった。キンキンに冷えた素麺と少し甘味の薄いスイカ、窓際の笹とそれに吊るされたいくつかの短冊。「みんなに短冊渡してお願いごと書いてもらった、これはバイト先の人の、これはお姉ちゃんの」もし私が七夕の日の誘いを断っていても、この子はひとりでも七夕を過ごしたのだろうなと思うととても愛おしかった。数あるイベントを単なる催し事ではなく、昔から続く季節の習慣として捉えていた。私はお願いごとを真面目に書くのが少し恥ずかしくて悩んだものの、素直に「いつも、いつもの延長線上にありますように」と書いた。「そういうところが綺麗よね」あの子はいつも私のことを綺麗だと言う。どういうところが綺麗なのかとたずねても「君は綺麗だから」と返すだけ。ただそこには嫌味なニュアンスもなく、すんなりと耳に入ってくる心地良い響きだけがあった。

 

それでも最後はとつぜんやってくる。七夕からほんの数ヶ月たった日のことだった。その日のあの子は一緒に七夕を過ごしたあの子じゃないような気がした。凛とした空気はかろうじて残っていたけど、どこも隙だらけで簡単にはがせてしまう。季節の移ろいをうまくつかめず、立ち止まりすぎたり、早歩きしすぎたような。冷めたわけじゃない、ただ七夕を一緒に過ごしたあの子はいないと感じただけ。あの子の口から「彼氏ができた」と聞く前に、いつもの挨拶代わりのキツネがそう伝えていた。

 

その日、あの子が意志を持ってはっきりと言ったのは「いままで夏なんて暑いだけで好きじゃなかったけど、今年の夏は君のおかげで楽しかった」ということだけだった。それは私がずっと求めていた100点満点の言葉だった。その言葉ひとつですべてが救われたし、すべてが満たされた気持ちだった。あまりにも完璧で、もしかしたらあの子は他人の言ってほしい言葉をみつけだすのが得意で、相手より先にうまく心のうちに入り込んで自分を隠すことに長けているキツネの子だったのかもしれないと思うこともある。ただあの子がキツネの子だったとしても私があの子に好意を寄せていたことや七夕を過ごしたこと、毎月交換しあった本、一緒にきいた音楽、それらがずっと私の中で生きていればいいなと思う。そんな最後の日も、いつもの延長線上で、お別れの合図は手でつくられたキツネたちに任せた。

発泡スチロールのような愛

例えば、たとえばの話。痛みや傷痕に伴っていだく「愛しい」という感覚が、痛みや傷痕が消えてしまったとき、その感覚の寄りそう場所がなくなったときにこそ大きくなればいいなと思うような日もあって、そもそも痛みや傷痕を作ってしまったことが間違いだったと思うような日もあって。何の意味もない数字をなぞって与えられる1日1日を、特に好きな味であるわけでもなく口がさみしいという理由だけで適当に放り込んだ飴玉を舌でころがして溶かすようにして過ごすのは悲しいから。

 

この頃の私の不満は、世界のすべてがただそうしてカレンダーの日付通りに行われていること。私は夏が好きだという、誰かは暑いのは苦手だと返す。私も暑いのは苦手です。私は夏が好きだという、誰かは冬の方が好きだと返す。私も冬の方が過ごしやすいと思います。でも私は夏が終わって秋が来て冬が来て、だなんて歳月の流れや暮らしの話はしていなくて。私は夏が好き、それだけの話。

 

「今日も1日愛しています」
「はい、こちらも今日も1日愛しています」
という発泡スチロールのような愛。

 

161015

理由もなくさみしい人たち

今年はよく「桜ノ宮も桜が綺麗らしいよ」という話を聞いた。先日でその話も4回目だった。その度に「あ、聞いたことある、綺麗らしいね」と答える。私にとって桜の季節のそのような会話の中で「桜ノ宮の桜が綺麗だった」と言う人が居ないことだけが救いだと思う。

 

「このあたりってやっぱり名前の通り桜が咲くのかな」2年前の冬、桜ノ宮に住んでる人と付き合っていた。その人はその年の夏に地方から出てきたばかりの桜ノ宮の春を知らない人だった。出会い系サイトで知り合った、ひとつ歳上で家事が苦手なコールセンターで働く人。待ち合わせた駅の改札前にあったチェーン店のカフェで、どこに住んでいるのだとか仕事をは何をしているのだとか趣味の話だとか、当たり障りのない話をしていた。見た目も別に好みではなく、話もそれほど合うわけでもなく、理由もなくさみしかっただけ。相手もきっとそうだっただろうと思う。Sサイズのコーヒーも飲みきらないうちに話題もなくなる。「このあとどうする、家くる?」と言う。電車で二駅、10分もあれば行けてしまう距離。家でもいいけど他に何かないかな、と少し考えたふりをしたけど先のことはもう決めていた。「そうしよっか」少し冷めたコーヒーを一気に飲みほした。

 

家について扉を開ける。調理器具の並んでいないきれいなままの台所と、洗濯物やゴミの散らかった部屋。家事が苦手な人なんだなと思った。初対面の異性の家にあがって早々に掃除をするのも失礼だとは思いつつも「ちょっと時間ちょうだい」と言って私は掃除を始めた。その人は別に嫌な顔ひとつせずベッドに横になり「ゴミ袋はそっちの引き出し、掃除機はそこのクローゼットにあるよ」とそれだけ言って眠った。掃除が終わってその人を起こす。「ありがとう、今まで掃除なんてしてくれる人いなかった」と言って手招きして隣にくるように促した。

 

掃除をしたからでもなく、セックスをしたからでもなく、お互いに理由もなくさみしかっただけ。「付き合って」と言われ「いいよ」と返す。お互いに嫌いじゃないから受け入れた。それからは休みの日になるとその人の家に行き、掃除をしてセックスをする。ときどき買い物に出かけることもあったけど、どこかへ遊びに出かけるということはなかった。

 

そんな数ヶ月を過ごした三月の末のこと、職場の人に聞いたという。「このあたりやっぱり桜が綺麗らしいよ、次の休みにお花見しようよ」その話を最後に私はその人と別れることにした。理由もなくさみしかっただけだから。だから私は桜の季節のあの街がどれほど綺麗なのかは知らない。あの人はきっとそれを知っているんだろうなあと思うと少し羨ましい気もする。「今日何してた?」が口癖の人と桜の季節の話。

確か梅雨があけた頃だった

「新居を探すからついてきて」と言うからついていった。私はそのときはじめて大国町という街に行ったけど、難波の隣駅、歩いて10分もかからないとても近いところなのにどこか遠くまで来てしまった気持ちだった。その人は出会い系サイトを介して以前にただ一度会っただけの名前も知らない人だった。その人が不動産屋で書類にサインをするとき、その手の動く先に書かれた名前を見て「そんな名前だったんだ」と小声で言ったらこっちを向いて何も言わずに微笑んでいた。大国町周辺の物件を何件かまわって「この部屋眺め良いね」だとか「お風呂狭くない?」だとかそんな会話をしていた。名前を知ってすぐの人。結局その日のうちに新居は決まらなかった。2週間ほど経ってから「新居決まったよ、それからこの前旅行に行って君にぴったりのお土産買ってあるからいつでも遊びにおいで」と連絡がきた。「次の休みに遊びに行くね」と返事をしてからもうすぐ5年が経つ。

 

「君は髪を切って茶髪にした方が似合うよ」と言っていたこと。コンビニで煙草を買うその後ろ姿が何だか格好良く見えたこと。その人は赤と黒のチェックのシャツがお気に入りだったこと。6つほど歳上だったこと。出会い系サイトで初めて会った人だったこと。時々意味もなく「寂しい」と言っていたこと。記憶の片隅に残っているものを掻き集めても名前も顔もうまく思い出せなくて、でもそれが悲しいとは思えないけど。

 

当時より髪も伸びて黒髪のままだし、自分も煙草を吸うようになってそうやって煙草を買う姿が格好良いと思うことはなくなった。赤と黒のチェックのシャツなんて私の趣味ではないし、当時のその人の歳と同じくらいになってしまった。そして出会い系で何十人もの人と会って、その中に意味もなく「寂しい」と言う人がたくさん居ることも知ったけど、あのときのお土産がどうなったのかなあなんてそれだけが少し気掛かりだったりする。日差しが少し痛い、梅雨があけた頃に出会った風俗嬢の話。